令和4年度

校長より

遊び心

随分と以前の話です。工事現場にあるクレーンの支柱の中ほどに、プレートが取り付けられているのを目にしました。よく見てみると、それぞれに、ひばりやつばめ、かもめなどと書いてあります。何号クレーンと呼ぶよりも、ひばりで材料を上げてくれ、と言ったほうが心が和むからそうしている、とのことでした。そういえば、現場を囲う塀には、中の様子が見えるよう、のぞき窓のようなものも付けられており、ずっと下の方の足元あたりにも、やや小さめののぞき窓がありました。その脇には、犬用、と書かれています。何とも長閑な時代でした。でも、ちょっとした遊び心は、人を楽しくしてくれます。今の時代だからこそ、心の中でふっと笑えるようなゆとりは失いたくはない、とも思います。

1月16日(月) 川俣高等学校長

生きる

私たちは生活を送る上で、当たり前に必要とするものを手に入れています。スーパーには、食べ物や飲み物が数多く用意されているし、本屋さんには、多くの本が売られています。でも、美的感動を享受するにせよ、科学の恩恵を受けるにせよ、何一つとして、一人の力で成り立っているものはありません。世の中では専門による分業化がなされており、お互いがお互いの生命の一端を担い合い人間社会が構成されている、そうした一面があるようです。私たちが生きているのは、大自然の力を基盤として、あらゆるものの力により生かされている、とも言い換えることができそうです。生きる力という言葉があります。自然の恵みや人の叡智を謙虚に受け取る姿勢から育まれる力のことを言います。決して、人を押しのけて前に飛び出すことから得る力のことを指すものではありません。どなたが話されたのかは定かではありませんが、次のような表現を記憶しています。「他のために灯をともしなさい。あなたの足元も明るくなります。」

1月13日(金) 川俣高等学校長

漢 字

夏の話で恐縮ですが、「青嶺緑風の候」で始まる葉書をいただいたことがあります。普段は目にしたことのない表現でしたが、すぐに頭の中で、青々と連なる高い山々から吹き降ろす涼しく爽やかな風が、深々と生い茂った木々の間を吹き抜けていくイメージが浮かびました。漢字の持つ特性を十分に活かし切った表現である、と思うとともに、この言葉に触れることで、夏の暑さをも忘れるほどの清々しい思いをしたと記憶しています。私たちの使っている漢字は表意文字であるために、こうした気持ちを抱かせてくれるのだとも思います。返す返すも夏の話で恐縮ですが、同じ頃の季節でいえば、新涼という表現は、夏の暑さから解放され、ややひんやりとした大気を肌で感じる、そうした季節の変わり目を、私たちにそっと教えてくれます。また、俳句に使われる季語を集めた歳時記を開くと、日本語の持つ繊細なニュアンスの素晴らしさを知ることができます。漢字に対する認識を深めると、心もまた深まる気がします。

1月12日(木) 川俣高等学校長

見ぬ世の人

北ドイツの牧師の子として生まれたシュリーマンが、ミケーネの遺跡発掘などによりエーゲ文明の存在を世界史上に位置付けるきっかけとなったのは、父親から与えられた「子どものための世界歴史」という一冊の本でした。彼はこの本により、古代ギリシアの詩人ホメロスの詩に触れ、トロイが伝承や神話ではなく実在したものだったのではないか、と考えたのです。このように、一冊の本は、人の生き方をも左右するまでの影響力を持つことがあります。また、良書との出会いは良友との出会いにも通じます。吉田兼好は徒然草に、「ひとり灯のもとに、文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなうなぐさむわざなる」と書いています。ここでいう文とは書物のこと、見ぬ世の人とは会ったことのない人を指すので、吉田兼好は、本を読むことで、出会ったことのない人と友人のように知り合うことができ、心がなぐさめられる、と言っています。読書は、知識を増やすだけではなく、友も増やしてくれます。

1月11日(水) 川俣高等学校長

本来、祭りと言えば、京都の下賀茂神社と上賀茂神社の葵祭を指していたそうです。現在では、津軽地方のねぷた祭や秩父の夜祭り、博多どんたくなど誰でも聞いたことのあるものから、眠気を払い流すために七夕の日に行う福島県のねむた流しなど、日本各所に様々な祭りがあります。元々祭りには、神の声と民の声を伝え合うという側面がある、ともされています。学校でも、年間行事の中に、体育祭や文化祭など祭の付く行事が多くあります。お祭り騒ぎに陥るだけではなく、各行事がなぜあるのか、その本来の意味を考えることは大切です。祭りの準備には相当の時間を要します。そして、祭り当日は、年に一度の晴れやかな日です。だから、祭りが終わると一抹のはかなさを感じるのだ、とも思います。祭りのときに取り組もうと思っていてできなかったことがあっても、その日に後戻りはできません。後の祭りとならないよう、一層の計画性は必要です。

1月10日(火) 川俣高等学校長

読書三余

生徒の皆さんは、「読書百遍、意おのずから通ず」という言葉を聞いたことはありますか。中国の董遇という学者が弟子に教えたもので、同じ本を百遍読めばその真意がわかる、と説いたものです。そんな時間は作れない、と悲鳴をあげた弟子に対して、彼は、「まさに、三余をもってすべし。」と続けます。三余とは、冬、夜、雨を指し、このときであれば、読書の時間を確保できると諭したのです。そういえば、勝海舟にも似たようなことがありました。店頭にあったオランダの兵書が欲しくなった勝海舟は、お金を工面して買いに行くと、その本は売れてしまっていたそうです。買い主を探し出し、自分に売ってもらえるよう話をしますが、買い主は頑として首を縦にはふりません。それでも勝海舟は粘り、その買い主に、「あなたがお読みになる間はその本がご入用でしょうが、就寝後の時間であればその本はお空きであろう。その空いている時間だけ借覧させてはもらえぬか。」と提案します。これはまさに、三余をもってすべし、です。結果として、勝海舟は自宅から四谷大番町にある買い主の自宅まで一里半(6キロ)の道のりを毎日通い、午後10時から午前6時まで、本の内容を写し取る作業を続けたそうです。その期間は半年。学びへの執念を感じる逸話です。

1月6日(金) 川俣高等学校長

砂には、砂丘など大きな存在から、石川啄木の「一握りの砂」から感じる身近なものなど、様々なイメージがあります。その砂丘も、動と静、荒々しさと優しさなど、相反するイメージを持っています。また、砂浜に立つと、人は波の音を聞きながら、指で思い思いの絵を描いたり、手で作品を作ったりします。砂の上では、皆が芸術家です。砂を知るには、豊かな創造力と思考力を要するようです。小学校や公園にある砂場もそうです。哲学者の中村雄二郎氏は、「子どもの頃に誰でも経験のある砂場の遊びには、生の自然にじかに触れる愉しみと手ごたえがある。触覚によるこの手ごたえは、一見なんでもないことのように見えるが、私たち人間が自分の生命感覚を確かめる原点でもある。」と話しています。若い頃に培われた感性は、人生を豊かにしてくれます。

1月4日(水) 川俣高等学校長

煩 悩

除夜の鐘が心に響く時期となりました。そいういえば、お寺には山門がありますが、本来は、三解脱門(さんげだつもん)を略して三門と表記し、悟りの境地を表しているのだそうです。人の持つ煩悩のうち、特に3つの改善を図ることで、人としてのあるべき姿を目指している、とされています。第一に貧(とん)です。何事に対してもむさぼる心のことをいいます。第二に瞋(じん)です。自己中心に考え、感情的になることをいいます。第三に愚かな心の癡(ち)です。物事の善悪の判断がつかず、正しいことができない状態をいいます。貧や瞋は自分の周囲に、癡は自分の将来に大きな影響を与えることがあります。三門(山門)をくぐるときだけではなく、常日頃から意識をして、その解脱を図るよう心がけることも大切です。人は、3か月継続することで変化の兆候が表れ、3年で完全に変わることができる、とされています。

12月28日(水) 川俣高等学校長

心の鏡

松下幸之助氏は、「迷うということは、一種の欲望からきているように思う。ああなりたい、こうもなりたい、という欲望から迷いは生じる。それを捨てれば問題はなくなる。だから、自分の才能というものを冷静に考えてみて、その才能に向くような仕事を選んでいくことが大切です。」と話されたことがあります。自分の進路を決めるために自分自身を知ることは、自分にしかできませんが、なかなか難しいことですね。自分の姿なら鏡に映すことができます。自分の声なら録音できます。でも、自分の心は、鏡に映すことも録音することもできません。自分を知るには、自分自身を心の鏡で見るしかなさそうです。心の鏡は汚れやすいものです。ごまかしの気持ちがあれば、瞬く間に濁ってしまいます。心の平静を保つことは、全てにおいて大切であるようです。

12月27日(火) 川俣高等学校長

灌 木

志賀直哉氏に師事していた作家の尾崎一雄氏は、何も書けない一時を過ごします。迷いに迷って、志賀直哉氏を頼り奈良に行き、厳寒の真夜中に鷺池のほとりに立ったとき、「我れ無一物」と痛感するとともに、頭の中で、何かが豁然(かつぜん)と拓けるのを覚えたそうです。それは、今すぐにでも、志賀直哉氏の域に達しようと背伸びをしていた自分の姿に気づいたためです。「志賀先生を亭々(ていてい)とそびえ立つ松とすれば、今の自分は小さな灌木(かんぼく)。でも、松には松の、八ツ手には八ツ手の生き方がある。」との悟りの境地であった、と、後に尾崎氏は話しています。人はそれぞれ、異なる環境に生まれ、異なる性格や考え方の下、成長します。そして、そのすべてが、個性として尊重されます。志賀直哉文学とは異なり、尾崎一雄文学は、庶民的とも呼べる、市井の夫婦の哀歓を描く作品を世に送り出すことで、その輝きを放つことになります。

12月26日(月) 川俣高等学校長

出藍の誉れ

中国思想家の荀子の言葉に、「学はもって已(や)むべからず。青は藍より出でて藍より青く、氷は水これを為して、水よりも寒し」というものがあり、生徒の皆さんも授業で触れたことがあると思います。弟子が努力して、師を超えて修養できたことを表現しているため、出藍の誉れとも言われています。冒頭の「学はもって已むべからず」には、学校など教育機関にいるときだけが学びの場ではなく、卒業してからも生涯にわたり学び続けてほしい、という願いが込められています。生徒(弟子)の皆さんが、学びをとおして教師(師)を超えていくこと、それは、師にとっての大きな喜びです。

12月23日(金) 川俣高等学校長

勝 つ 

人はよく、強い決意をもって新年を迎えます。その中には、自分の内面にやや無気力な面が見られたので自分に打ち勝ちたい、あるいは、冷静な判断の下、試験や試合に臨み結果を出したい、など、内なる対象(自分)に勝つことを意識したものも多く見られるようです。この勝という字は元々、力を込めてものを持つ、という意味があり、転じて、耐える、という意味でも使用されていたそうです。この本来の意味に沿えば、忍耐力や継続力なくして勝つことは困難であるように思えます。そういえば、北原白秋作詞、山田耕作作曲「まちぼうけ」という曲は、中国の戦国時代の諸子百家の一人である韓非の言葉「株を守り兔を待つ」をもとにして作られたそうで、人生の偶然の幸運を表す一方で、偶然には連続はない、という教訓も示されています。生徒の皆さん、自らの願いを成就させるためには、やはり、自らの努力に勝るものはないようですね。

12月22日(木) 川俣高等学校長

木 鶏

戦前の名横綱である双葉山が69連勝という記録を打ち立て、70連勝目をかけて安芸ノ海との取組に臨んで負けたとき、師事していた陽明学者の安岡正篤氏に宛て、「我、いまだ木鶏に及ばず」と電報を打ったそうです。木鶏とは、「荘子」にある「之ヲ望ムニ木鶏ノ似(ごと)シ」からの言葉です。王が、自分の鶏を相手の鶏と闘わせる状態かどうか尋ねた際の、闘鶏育成の名人である紀省子が話す4つの答えが示されています。①「今は空(から)威張りの状態です。」②しばらくして、「まだ、相手を見ると必要以上にムキになります。」③十日待たされて、「まだ、相手に対して嵩(かさ)にかかります。」④「もう、他の鶏の鳴き声を聞いても平気です。徳が充実しています。相手を、まるで木で作った鶏としか思っていません。相手は、闘わずして逃げ出すことでしょう。」 この4つの話には、それぞれ、①競争心を駆り立てぬこと②自分を、自分以上に見せぬこと③辺りを気にしないこと④静かに自己を見つめること、という教訓が含まれています。自己を厳しく見つめながらも冷静な判断ができる、双葉山の優れた一面を知ることができます。ちなみに、双葉山は少年時代に、遊び友達が放った吹矢が右の眼にあたり、視力を失っていたにもかかわらず、その友達を全く責めることもなく、また、そのことを誰に話すこともなく土俵に上がり続け、努力の下、横綱という名誉な地位を築いたことでも知られています。

12月21日(水) 川俣高等学校長

受け入れられる

ゴーリキーが歩いていると、海岸に座っているトルストイを目にします。トルストイが自然の一部と化し、まるで、波やそこにある岩、雲と会話をしているようにも思えたそのとき、彼には言いようのない喜びが心に満ちて、何もかもが幸福な思考の中に溶け合ったように感じたそうです。「自分はこの地上にいて一人ではない。この人がいる限りは。」という胸の内を、彼は「追憶」に記しています。ゴーリキーが老トルストイの姿から何を感じたのかは明かされていません。でも、自然と共にあるトルストイから、自分もまた、自分の持つ良さも欠点もすべてを含めて、周囲から受け入れられている、と感じ取れたのかもしれません。友にも、家族にも、そして自然にも、受け入れられていると感じることができれば、大きな安心感を得ることができます。私たちに生きる喜びを与えてくれるのも、友、家族、自然なのだとも思います。

12月20日(火) 川俣高等学校長

リベラルアーツ

海外の企業に勤める方には、文系理系を問わず、哲学や文化、歴史など幅広い教養を身に付けている場合が多く見られます。それは、海外の大学教育がリベラルアーツだから、とする意見もあります。専攻に関わりなくリベラルアーツ教育を受け、むしろ専門分野は大学院で学ぶもの、とする海外の大学もあります。では、そこまで重視するリベラルアーツとは何なのでしょうか。古代ギリシアやローマにおいて生まれたもので、言葉に係る文法や修辞学、論理学、そして、数学に係る算術や幾何学、天文学、加えて音楽の7科を指します。リベラルは自由、アーツは学問なので、人を自由にする学問、として、自由な発想や思考を可能にするもの、とされています。今はもちろん、古代ギリシアやローマの時代ではありませんので、その中身について吟味する必要はあります。でも、人を作り上げる礎として、長い期間にわたり引き継がれてきた分野であることを意識した上で、適宜、自分に取り入れていく姿勢は、今でも大切なのかもしれません。

12月19日(月) 川俣高等学校長

知 る

現在、私たちの周囲には多くの情報が飛び交っており、知ろうとすればすぐにでも、スマホなどをとおして一定の知識を得ることができるようになりました。以前は図書館に行って、多くの書物の中から目的に合ったものを探し出し、時間をかけて何かを調べるのが当たり前でしたが、今では、自分の部屋にいながらにして、瞬時に多くの情報が手に入ります。また、自分で考えたことを話していると思い込んでいると、実はそれは、テレビや新聞、書籍などからの情報であった事実に気づかされることも多々あります。こうした媒体から得た情報は大変貴重であり、そうした情報ツールは私たちの生活にはなくてはならぬものである一方で、間接体験、言い換えれば抽象的体験であるために、物事を本当の意味で知り、考えるために必要とされる直接体験の機会もまた大切である、とも言えます。論語には、「之れを知るを之れを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり。」という言葉があります。知っていることだけを知っているとし、知らぬことは知らないと認める姿勢を説いたものです。友の心に響くのは、その表現が多少ぎこちなくとも、自分で考えたり感じたりしたことを自分の言葉で語る、生徒の皆さんの中にある真の声、なのかもしれません。

12月16日(金) 川俣高等学校長

後 悔

生徒の皆さんは、自分の過去を振り返った際に自分の行動が間違っていたと感じ、後悔したことはありませんか。でも、過去の自分はその時に、全力を尽くして考え、努力し、行動していたはずです。仮に過去の自分が誤っていたとしても、誤った自分も自分である以上、そのことを含めて自己の全部を肯定し引き受ける必要があります。考えてみれば、成功か失敗かの要因は、無数にある因果関係や偶然の作用に支配されるなど、自分の他にある場合が多く見られます。できることはすべてやった、あとは天に任せる、くらいの気持ちを持つことも大切です。宮本武蔵「五輪書」にも、「我(われ)事(こと)に於(おい)て後悔せず」とあります。また、小林秀雄氏は、後悔を受け入れるようでは、人は本当の自己に出会うことはできぬ、と述べています。

12月14日(水) 川俣高等学校長

インスピレーション

有名な物理学者アインシュタイン博士は、極めて温厚な性格で知られています。「相対性理論を発見したきっかけは、瓦職人が偶然に屋根から転がり落ちるのを見て思いつかれた、と聞いています。」と話しかけられた彼は、いつもとは異なり厳しい表情をして、「世間では、ニュートンが、落ちるリンゴを見て万有引力を発見した、とされていますが、とんでもないことです。ただものを見ただけでは、何の発見もできません。様々な実験や思考を重ねて、常に心に引力という存在を置いていたからこそ、ニュートンには、リンゴの落ちる事象からインスピレーションが湧いたのです。相当の苦心や努力の下に、インスピレーションは与えられます。」と話します。同様に、アインシュタイン博士は、激しく心を揺さぶる、今まで見えなかった道を明るく照らし出してくれる一瞬のひらめき、不意に心の中に生まれるそのインスピレーションの99%は努力で成り立っている、とも話しています。

12月13日(火) 川俣高等学校長

前頭前野

人の脳には、分析的思考や客観的思考を行う前頭前野という部分があります。日常的に、そうした思考を行う習慣を身に付けていれば、前頭前野は鍛えられ、衰えを抑制することが期待できます。では、どうすれば、前頭前野を鍛えることができるのでしょうか。専門家の中には、客観的に自分を見るよう心がけること、そして、いつも予定がいっぱいで忙しく過ごすよりも、自分の言動等を振り返る余裕を持つこと、を挙げる人もいます。具体的には、いつもとは違う道順で登校したり、いつものメニューやいつものお店を変えてみたりするなど、慣れていることを一旦やめて新しい体験をすると良いそうです。このように、前頭前野を鍛えるには、前頭前野を刺激する頻度を上げることが大切とされています。

12月12日(月) 川俣高等学校長

成 果

何かを成し遂げようとするとき、その過程で必要とされることは何でしょうか。その人の持つ才能、という人もいます。でも、才能に恵まれたとされるゲーテほど、才にまかせてするのを戒め、努力と精神の集中の必要性を説いた人はいません。偉大な仕事を成し遂げようと欲するなら、心を集中しなければならない、と、彼はいたるところで話しています。そうして成し遂げるからこそ、苦労に満ちた努力も、喜びへと変わるのだと思います。高村光太郎氏も、才に頼り次から次へと手を出すこと以上に、むしろ鈍であれ、牡牛のごとくひたむきに押せ、ということを「牛」という詩にうたっています。それには、一定の時間を要するとは思います。でも、もしも仕事で一定の区切りを迎えて自らを顧みた際に、それまで取り組んできた自分は充実した時を過ごすことができた、と思えたら、相当に幸せです。そういえば、山口市にある中原中也氏の詩碑には、小林秀雄氏の字で、「あぁ、おまへ(お前)はなにをして来(き)たのだと・・吹き来る風が私に云(い)う」と刻まれています。

12月9日(金) 川俣高等学校長

価値の創造

生徒の皆さんが企業に就職し、商品開発のプロジェクトチームに配属になったとします。そこでは、上司に言われた通りにやること、また、過去や他社の傾向ばかり気にすることは求められていません。改良はできても、新たな創造ができないからです。自分を囲い込んでいる枠の中から、自らが一歩踏み出すことが求められます。そのためには、自らの感動体験が大切とされます。自分がこんなに素晴らしいものを作った、皆にこんなに喜ばれることをした、といった感動体験をとおして、お客様にも同じ感動を感じてもらいたいと、心から思うようになるのだそうです。そして、ノルマとして仕事に取り組んでいた姿勢にも、大きな変容が表れます。ものづくりに関わる方には、自分たちはものを作っているのではなく、お客様の感動を作っている、と公言する人が多くいらっしゃいます。加えて、時代に左右されることのない価値も創造したいと思うようになるのだそうです。ものづくりの世界は、実に楽しそうです。

12月8日(木) 川俣高等学校長

自己に達する

いつの時代にも流行がありますが、その流行に忠実であったために、流行に裏切られる場面に遭遇することもあるようで、それは絵画の世界も然りです。では、幾世にもわたり残る絵とはどういったものなのでしょうか。洋画家の熊谷守一氏は、「絵でも字でも、うまく描こうなんてとんでもないことだ。結局、絵は自分を出して、自分を生かすことだと思います。」と話されています。熊谷氏は加えて、それが最も難しく、そうした領域に達するには、おそろしいほどの時間と忍耐、辛抱を要し、評価されない苦しみと孤独にも耐えなければならない、とも話されています。このことは、絵に限ったことではありません。生徒の皆さんが、自分の持つ個性を十分に発揮できるまでには、言い換えれば、自己に達する瞬間までには、前述したような忍耐の期間を経験するかもしれません。でも、その先には、自分の中に長く残る財産を作り上げることができます。

12月7日(水) 川俣高等学校長

生徒の皆さんは、一期一会という言葉を知っていることと思います。この言葉は、今日の茶会は、再度繰り返すことはできない一生に一度のものなので、主人も客人も、そのことを心して、共に全力を尽くし素晴らしいものとしなければならない、という思いの下、茶道の教えとして使われました。そしてこの考えは、人生のありとあらゆることに当てはまります。どんなことでも、人生で一度しかなく、再び繰り返されることはありません。たとえ、同じメンバーで同じ場所に集まったとしても、同じ時間にはできません。今、友と会っているのも一期一会であるし、また、何かに取り組むこともまた、一期一会です。だから、何かを話し合う機会があるのであれば、和やかな中にも節度を持って盛り上がり、楽しい一時を過ごす方がずっといいわけです。家族と過ごす時間も、思いやりと感謝の心を持ちながら、明るく話す方がいいと思います。作家の井上靖氏は、「自分が歩んできた過去を振り返ってみると、一生に一度の素晴らしい出会いが、何とたくさんあったことか。その多くは、自分が意識して作ったものではなく、求めたものでもなく、偶然に生み出されたものであるが、長い人生行路において、そこだけが輝いて見える。」と、ご自身の本に書いていらっしゃいます。生徒の皆さんと私たち教員が、ここ川俣高等学校に集うのも、今、この瞬間しかない大切な時間です。家族の方々と話をするのも然りです。間もなくやって来る冬季休業を、今、を考え、今、を見つめ直す機会にするのもよさそうです。

12月6日(火) 川俣高等学校長

人づくり

江戸時代の名君である細川重賢氏が藩校を作ったときの話です。彼は、指導される方々に対して、「あなた方は国の大工さんである。そして、あなた方の教えを受ける若者は、例えるなら、川のいたるところにいるなど、様々である。どうか、橋を一か所に架けることのないようにしてほしい。強い流れのところにいる者も、なだらかな流れのところにいる者も、皆、川を渡れるよう、それぞれのところに橋を架けてほしい。」と話したそうです。かねてより、人を木に見立て、「人は、一本一本の木である。」という考え方もありました。それは、①木には無数の種類がある。人も同じである ②木は、場所によって、育つ木もあれば育たぬ木もある。人も同じで、育つのに適した環境がある ③木には、肥料をやらなければならない時期と、自然に任せて育つ時期とがある。人も同じで、手を差し伸べる時期と、控える時期がある、という理念に基づくものです。今にも通じる考え方ですね。

12月5日(月) 川俣高等学校長

人学ばざれば知なし

生徒の皆さんは、福沢諭吉氏の著「学問のすすめ」を知っていると思います。日本の人口が約3300万人であった当時、約80万部売れたベストセラーです。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という冒頭が有名なので、武家時代の階級概念を打ち破ることに努め、人の平等について述べた本、とされていますが、一方で、学ぶことの大切さについても主張されています。この本の一節には、次のように表現されています。「されど今、広くこの人間社会を見渡すに、賢き人あり、愚かな人あり、そのありさま雲と泥の相違あるに似たるは何ぞ、その次第甚だ明らかなり。人学ばざれば知なし、知なき者は愚人なり。」。その厳しい指摘から相当の年月が流れましたが、学ぶ意義は一層の高まりを見せています。文豪吉川英治氏の座右の銘は、「我以外皆我師」だそうです。すべての人から学ぼうとする姿勢は、今も健在です。

12月2日(金) 川俣高等学校長

不連続の連続

紅葉の季節が終わり、冬がやって来ます。カレンダーを見ながら、そして季節の移ろいを感じながら、私たちは昨日と今日、明日というように区切りをつけます。こうして、人は自然の力を借りながら、連続した日々の流れに区切りを入れてきました。私たちの心の動きを不連続にしたのです。でも、皆が気づいているように、時や私たちの活動は、昨日や今日もそうであるように、明日もまた、途切れることなく連続します。変化のない単調な毎日に敢えて区切りを入れることで、私たちは今日を生き、明日を想う新たな気持ちを手に入れているのかもしれません。区切りはけじめ、一歩を踏み出す大きな力です。不連続な心を繋げていく努力の先に、目標達成の瞬間があります。

12月1日(木) 川俣高等学校長

適 職

生徒の皆さんは、自分の持つ個性に合った職種かどうかを念頭に置いて、就職先を絞り込んでいくことと思います。そして、実際に就職した後に、仕事が楽しいので、これこそ自分の天職だ、と思うかもしれません。でもそれは、もしかすると適職なのかもしれません。天職とは、その仕事をするために自分は生まれてきた、天から授かった、と思えるような職業を指します。そこには、楽しさに加えて、常にやりがいや満たされた感情が伴います。では、適職を天職にまで高めるにはどうすればよいのでしょうか。そのためには、ある程度の時間を要します。万が一、仕事でうまくいかない場面に遭遇したとしても、あきらめることなく継続して取り組み、経験を積む中で自己洞察が進み、自分の向き不向きなどについても明確化されていくと、いよいよ天職の領域に踏み込むことになります。天職とは、見つけるものでも与えられるものでもなく、適職を自分の力で徐々に変えていくこと、と言えるのかもしれません。適職に就ければ十分に幸せです。そして、もしも天職にも就ければ、人生が一層楽しくなると思います。

11月30日(水) 川俣高等学校長

性格を変える

生徒の皆さんは、自分の性格を変えたいと思ったことはありますか。精神医学的見地からすると、人の性格は3年程継続して取り組めば変えることは可能だそうです。でも、ある一つの性格を変えたとしても、自分の別の性格が気になり、結果として、性格を変え続ける無限連鎖に陥ってしまうこともあります。効果的な取組として、行動を変えることを推奨する心理学者もいます。自分のどういった性格をどのように変えたいのかを明確にして、そのために行う行動を3つ挙げます。例えば、内向的な性格を外向的に変えたいので、①笑顔で挨拶する ②意見を求められたら、最初に挙手して意見を述べる ③初対面の人には自分から話しかける、など、実現可能な3つの行動を意識して生活を送るのです。古代ギリシアの哲学者アリストテレスも、「その人の性格は、その人の行動の結果である。」と述べています。こうした皆さんの行動をとおして、自然に、周囲からの皆さんに対する見方が変わり、性格を変える以上の効果が表れます。

11月29日(火) 川俣高等学校長

コミュニケーション力

コミュニケーション力の大切さについては多く語られており、具体的な向上策も多々挙げられていますが、次の3観点も注目すべきこととされています。第一に、自分に自信を持つことです。情報を発信するには自信を要します。自信は、勇気と置き換えることもできます。第二に、相手の話に耳を傾け、理解しようとする姿勢を持ち続けることです。傾聴という言葉もあります。自分の言葉を伝えることに集中するあまり、話が一方通行になり、コミュニケーションが成立しないケースを避ける意味でも重要です。第三に、困ったときには助けを求めることです。すべての人がすべての分野について深く知っているわけではありません。お互いに補完し合うことで、自分の力とともに組織力も高めることができます。

11月28日(月) 川俣高等学校長

管鮑の交わり

友人間の信頼関係を表現するときに、「管鮑の交わり」という言葉が使われます。管仲と鮑叔は若い頃に友人となり、特に、鮑叔は管仲を優れた人物として尊敬します。後に斉の国政を担うまでになった管仲は、次のように話します。「かつて私は、鮑叔とともに商売をした。利益を分けるときに、私は自分の分け前を多く取ったのに、鮑叔は私を貪欲とは思わなかった。私が困窮していたのを知っていたからである。かつて私は、鮑叔のために事業を企て失敗したが、鮑叔は私を愚か者とは思わなかった。時に利・不利のあることを知っていたからである。かつて私は、三たび仕えて三たび君(主)から逐(お)われたが、鮑叔は私を無能とは思わなかった。私が時の利に合わなかったことを知っていたからである。かつて私は、三たび戦い三たび敗れて逃げ出したが、鮑叔は私を卑怯とは思わなかった。私に老母のあることを知っていたからである。私を生み育ててくれたのは父母だが、私を知ってくれているのは鮑叔である。」と。さて、生徒の皆さん、皆さんの周囲には、管仲から見た鮑叔のように、皆さんを真に理解してくれる友はいますか。

11月25日(金) 川俣高等学校長

一 念

何事も最初からうまくいくことはありません。人は皆、成果を上げるには繰り返しが大切である、ということを知っていますが、この繰り返しがなかなかできないのも事実です。あちらに行けば水が出るのではないか、向こうに行けば井戸があるのではないか、と右往左往してみても、結局、水の在処は自分の足元であったりします。「足下(そっか)を掘れ、そこに泉あり」というように、自分の足元を地道に掘っていけば、泉は必ず湧いています。成功を収めるには、自分に与えられた仕事(課題)を最後まで手を抜かずにやる、これしかありません。「一念(いちねん)、道を拓く」の信念の下、仕事(課題)をやり続けることで、自分にしか到達できない泉に出会うことができます。

11月24日(木) 川俣高等学校長

時の物差し

元東京工業大学教授の林雄二郎氏は、経済企画庁職員として、戦後日本の経済復興に係る三か年計画や五か年計画の策定に取り組んでいました。そして、友人である文化人類学者の梅棹忠夫氏から、「こういうことを今のうちにちゃんと考えておかないと、人類は間もなく大変なことになる。」との忠告を受けます。「間もなく」とは何年後のことか尋ねると、梅棹氏は真顔で、「5千万年後のことだ。」と答えたそうです。人は皆それぞれに、時の物差しを持っています。でも、その基準となる目盛りの幅には違いがあるようです。遠い将来に至るまで物事を考える人にとっては、千年刻みの目盛りからなる物差しが必要なのかもしれません。ちなみに、その話を聞いた林氏は、梅棹氏と同じ時間の物差しで考えることができるよう心がけることで、梅棹氏の話が世迷言や空想上のことではなく、現実味を帯びたこととして捉えることができたそうです。

11月22日(火) 川俣高等学校長

目標設定

目標を立てる重要性については以前にも話をしましたが、では、生徒の皆さんは、具体的にどのようにして目標を立てるでしょうか。SMART理論による目標設定を実践している企業があります。Specific(具体的か)、Measurable(測定可能か)、Achievable(達成可能か)、Realistic(現実的か)、Timely(期限が明確か)、という5観点を指標としたものです。目標は最高値に設定すればよいわけではありません。また、目標設定をすることがゴールでもありません。目標達成を何度も繰り返していくことで達成感や喜びを感じ、取り組んでいることに一層のやりがいを感じることこそ大切です。達成感や喜びを感じた生徒の皆さんの存在は、周囲にいる人も幸せにします。今日すぐにでも、何かに対する目標立案を図ってみませんか。

11月18日(金) 川俣高等学校長

心は人

ミヒャエル・エンデの「モモ」という小説をご存じでしょうか。登場人物のモモは、人の話を聴き、その魂の中にあるものを引き出す特異な才能を持つ少女として描かれています。モモと話をすると、自分の心の内を聞いてもらって心が安らぐため、多くの人がモモを訪れます。人は、何かを所有することよりも、人として穏やかに生きることの幸せを知るようになる、こうした内容です。でも、作者エンデは、「一人ぼっちで友だちがいないとき、モモは誰よりも無力。だからこそ、モモには友だちが必要。」とも話しています。モモは、人の心そのもの、なのかもしれません。心と心の交流を必要とする存在、それが人であるとすれば、人は心で生きる、と言えるのかもしれませんね。

11月17日(木) 川俣高等学校長

汗と涙

高校時代に陸上部に所属していたこともあり、三村仁司氏は大手靴メーカーに就職します。一層走りやすい靴を求めて研究したいという希望を持っていたものの、配属されたのは研究室ではなく製造現場でした。靴の底に糊を打ってアッパーをつける作業を、文字通り、額に汗しながら行い、次から次へと流れてくる製品に多く触れているうちに、理屈ではなく、靴作りの基本が自分の体に徐々に染み込んでいくのがわかったそうです。はみ出した糊を削ぎ取り、中敷きを入れ、紐を通すなど仕上げの作業にも従事するようになる頃には、靴と自分の間に距離感は全くなくなり、靴は自分の体の一部であるがごとく感じるまでになったそうです。瀬古利彦選手のシューズの担当となった縁で、三村氏は、瀬古選手の師である中村清先生と知り合い、大きな影響を受けられます。中村先生の「若いときに流さかった汗は、老いてから涙になって返ってくる。」という言葉を受け、若いときに汗を流せば流すほど、後にその結果が表れて喜びとなる、と、常に自らを戒め、仕事に取り組まれたそうです。

11月15日(火) 川俣高等学校長

条 件

目標達成のためには計画立案が大切と言われます。例えば、北海道旅行に行くと仮定します。今回の場合は、北海道旅行が目標となりますが、その過程の選択肢は、交通手段一つを取っても、新幹線や車、飛行機など無数にあります。加えて、道中、楽しんで北海道に向かうのか、最短で行くのかにより、選択する交通手段や経路、旅行に要する日数にも変化が生じます。このように、計画には多くの条件(時には制限)が伴います。まずは、自分の持つ、条件に関するカード(ここで言えば、新幹線や車、飛行機など)を正確に知ることが重要です。そして、その条件の中で有効なカードを使いながら、大きな成果をあげることができるよう取り組むことです。試験で目標とする得点を取ろうとする場合でも同様です。文法や英作文問題で8割以上の正答率をあげることを前提に、英語長文で7割の正解を得るよう学習を進めるなど、手持ちカードの熟知と有効活用、そして具体的な計画により、掲げた目標の達成率は飛躍的に高まります。

11月14日(月) 川俣高等学校長

話す

話の中で、「ていうか」という表現をよく耳にします。「というよりはむしろ・・じゃないか」という本来の使われ方から離れて、今では一般的に、話題の転換を図る際に使われているようです。また、「でも」という言葉は、相手の話を一応は否定しながら、相反することを話す際に使われるはずですが、「でも」の後で、逆説ではない内容が展開されることも多くあります。加えて、「アイドルなら、私は〇〇が好きです。」に対して、「でも、アイドルと言えば▢▢じゃないですか。」と切り返されると、否定を受けたようにも感じられますね。この場合は、「でも」を使うことなく、「そうですね。私は▢▢も好きです。」と返せば、意図は十分に伝わります。日本語は意思表示を曖昧にしたまま、ニュアンスで伝えることのできる言語とも言われています。であるからこそ、その使い方については、もう一度気をつける必要もありそうです。

11月11日(金) 川俣高等学校長

きしん

孔子の弟子である子貢が、井戸から水を汲み、瓶(かめ)に入れて何度も畑まで運ぶ老人に出会ったそうです。はねつるべなどの機械を使えば、わずかな労力で簡単に水を汲める、と忠告すると、その老人は、「機械を持っていると、機械を使う仕事(機事 きじ)が増える。機械に頼る気持ち(機心 きしん)も生まれて、自分はきっと、ますます機械に頼るようになる。そうなったら、私の心はどこに残るのだろうか。」と答えたそうです。「機事ある者は、必ず機心あり」という言葉が生まれました。チャップリンの映画「モダン・タイムス」にも、全てが機械化されていく現代文明に対する風刺が描かれていました。人の歴史は常に機械の発明や発展とともにあります。人類史を織りなしてきたもの、その一つは道具や機械です。身を守るため、生活を守るため、人は機械を作り出した一方で、機心がふくらむことで更なる労働要求がなされ、生活を一層忙しく感じるようになった一面もある、との指摘もなされています。ただ環境に流されることなく、人が本来携える精神を忘れずに意識しながら生きる必要性が高まっています。

11月10日(木) 川俣高等学校長

吹き出し

漫画に見られる吹き出しは、なぜあるのでしょうか。登場人物が話す内容を線で区切ることで、見やすくして読者に伝える側面はあります。でも、一見すると、それはまるで人の吐息のようでもあります。息を吐くことは、生物にとってとても大切なことです。緊張することを「息が詰まる」と表現するように、息が詰まったらリラックスはできません。無意識のうちに息を吸うことはできても、大きく息を吐くには敢えて意識する必要がある、そのくらい吐息は重要です。漫画の世界では、吹き出しによる、息を吐く場面ばかりがあります。漫画を読んで心がリラックスできるのは、登場人物の吐息を感じて、私たち読者も大きく息を吐いているからかもしれませんね。

11月7日(月) 川俣高等学校長

日本では古来より、丁寧に次への準備を進め、1回にすべてをかけて取り組む、との信念の下、行動する一面を持っていました。一度、墨(黒)を塗ったら元の場所へは戻ってはならない、とのこうした感覚を、原研哉氏は本の中で、「日本人の有する白」と表現しています。弓道の世界にある、1本目で当てることを意識しているからこそ、2本目の矢は持たない、といった習慣もまた、一期一会、1回にすべてをかけるという、覚悟にも似た価値観の表れです。全神経を集中し、全力で立ち向かう必要のある、こうした白の瞬間は、日常生活の中にも訪れます。生徒の皆さんは、今日、こうした白の場面に、何度遭遇しましたか。

11月4日(金) 川俣高等学校長

実 行

生徒の皆さんは物事に取り組む前に、失敗しないよう、必要以上に時間をかけてはいませんか。実行して失敗したら、すぐにまた実行する、というサイクルを速く回せることこそ、真の成功を収める近道とされています。失敗したとしても、即座に原因を追究し、改善を施す姿勢が大切です。「失敗したからといって、クヨクヨしている暇はない。」と、本田宗一郎氏も話しています。

11月2日(水) 川俣高等学校長

不易流行という言葉があります。不易とは変わらないことを指すのに対して、流行とは流れ動く、つまり変化を意味します。朱子学の思想が主な時代に生きた松尾芭蕉が、変化を好むことも頷けます。彼は、俳諧の世界に、積極的に連句を取り入れます。連句は、何人かの仲間と膝を突き合わせながら、前の人がつけた句に次の句をつけて答えるものです。次の人は前の句に新たな解釈を与えるので、その句は、前の句とは全く異なる変化を遂げることになります。近代文学を孤独の文学と称する人がいます。いわば個の文学に対して、松尾芭蕉は皆で作り上げる座の文学を取り込んだとも言えます。「秋深き隣は何をする人ぞ」からも、孤独を通じて人とつながろうとする、彼の、そして人の持つ本質が窺えます。

11月1日(火) 川俣高等学校長

先読み

研究とは何か、と問われると、多くの研究者は、自分の持っている技術を意味するシーズ(種)と、社会が求めているニーズを線で結びつけること、と答えます。でもやっかいなことに、シーズもニーズも日々変化します。昨日まで不可能であったシーズが翌日には可能となることもあれば、社会のニーズであったものが、他社の製品開発により、一瞬のうちに不要となることもあります。いわば、動いているもの同士をどうやって結びつけるのか、ということに関わること、それが研究なのです。では、研究で大切にしなくてはならないことは何か。いずれはこうしたことも必要になるだろうとの予測の下、自分のシーズのレベルを磨き上げようとする志を持つことです。加えて、目の前のニーズを追いかけたとしても、時間の経過とともに、あるいは瞬く間にそこからなくなるのであれば、5年先、10年先を見通す先読みの力もまた、同様に大切な要素です。変化の激しい時代であるからこそ、先読みの重要性は一層増しています。

10月28日(金) 川俣高等学校長

課題解決

何らかの不具合が生じた際に、即時にその解決を図ることは重要です。でも、偏った考えや、力を入れ過ぎた状態で事に臨むと逆効果の場合もあります。赤の眼鏡をかけていれば、そこに赤色があっても見逃してしまうように、色眼鏡をとおしてものを見ようとすると、ものごとを素直に見ることができなくなります。また、自分が何とかしようとする強すぎる思いにより、一部のみ見て全体像を把握しようとしない傾向に陥る場合もあります。ものごとを一段異なる次元からじっくりと眺め、冷静さの下、対応することで、改善の可能性は大きく高まります。

10月27日(木) 川俣高等学校長

規格外

宇宙開発は、行ったこともない場所に向けて、動かしたこともないものを1回で完璧に動かすことを求められるなど、過酷なものです。すべて、予測と計算の下で行われる作業に従事していると、どうしても安全志向に陥るのだそうです。「はやぶさ」を打ち上げたとき、3つ搭載した、リアクションホイールという制御装置のうち、1台目が1年後に、2台目が2年後に壊れたそうです。残った3台目も、同時期に同じ設計で作られているため、同じ使い方をすれば近く壊れるだろうし、またそれは、「はやぶさ」をとおした調査研究を、一旦は終えなければならないことを意味する、と考えた宇宙航空開発機構の方々は、熟慮の末、飛行スピードを落とす提案をします。一方、製造メーカーなどからは、飛行スピードを落とすなど規格外のことは、かえって危険度を増す、との意見が出されます。慎重な検討により、同開発機構の提案通り、飛行スピードを落とすことで運用し、結果として、3台目のリアクションホイールは7年間も稼働し続けることとなります。安全志向から舵を切ったことによる、成功事例とされています。後に、このときの決断について問われた際に、「はやぶさ」を提案する10年程前に、当時取り組んでいた小惑星接近計画をNASAに先取りされたことへの意地も少なからずあった、と、同開発機構の関係者の方は話されていました。

10月26日(水) 川俣高等学校長

我が事

私たちは、いわば慣性の法則がごとく、毎回、決められたことの繰り返しをしている場合が多くありますが、そこからは大きな進歩は生まれません。ある企業では、年間に約60万件もの改善提案が出され、検討の後に、その90%が実行されるのだそうです。当然、自社製品の品質向上とコストダウンを図ることができます。見学に訪れた他企業の方が、「どうして、これだけの改善ができるのですか。」と尋ねると、「なぜ、できないのですか。」と、逆質問を受けたそうです。自分の考えが反映されるとなれば、社員の、会社を見る目線にも力が入ります。自分たちが会社のエンジンとなっている、といった自覚も高まります。会社を一層良くする原動力、それは、常に現場にあります。

10月25日(火) 川俣高等学校長

コメント

小説家である壇一雄氏がパリを訪れたとき、街頭で、日本の大きなリンゴと比較して明らかに小さなリンゴを目にしました。フランス在住の友人が勧めるので、半信半疑で一口齧った壇氏は、その美味しさを次のように表現したそうです。「美味しいからと言われて齧ってみると、小さいながら、なにかこう、緻密(ちみつ)な、フクイクとした香気のようなものが感じられた」。実の詰まったリンゴを、硬い、とは表現せず、普段は味に関しては使わない緻密としたところに、言葉の選択の素晴らしさを感じます。フクイクとは、漢字で馥郁と書き、いい香りが漂う様を言うのだそうです。馥の右側の字は、ふっくらとした、という意味を含んでいるため、香を加えて「フクイクとした香気」とすることで、その様子が手に取るように伝わりますね。何かを問われたときに、咄嗟に含みのあるコメントで応えることができたら、周囲の人を和ますことができる、と、いつも思っています。

10月24日(月) 川俣高等学校長

3人寄れば

会社では、改善提案を求められる場合がよくあります。一人で考えることもできますが、複数人で考えると、様々な意見の集約ができる環境が整います。いわば、3人寄れば文殊の知恵作戦です。改善提案には、課題に気づき、その改善策を考え、それを形にして実行する、という3つのプロセスを必要とするので、3人がそれぞれ得意とする分野を担当することにより、一層効果的な取組にすることができます。「孤立した状態では実力を発揮しにくい人も、組織された社会において、その不足を補填できる」という、心理学者アルフレッド・アドラーの言葉もあります。お互いを支え合うからこそ、大きな成長や成功がもたらされます。チームとは、助け合い、補い合いながら成長を遂げる場なのです。

10月21日(金) 川俣高等学校長

過 去

私たちの経験値は、過去にどう対処したかを拠り所として高めていく側面があります。でも、変化の激しい時代に過去の成功事例にだけとらわれると、それが原因で大きな失敗につながる場合もあります。世の中が変化の中にある現在、過去の蓄積である常識が変容を遂げています。今後は一層、変化に対応する力が求められます。それは、一つには、変化を予想し、どのように対応すべきかを考える柔軟性であり、また一つには、既存の常識を覆す挑戦をとおして不可能を可能にする、本質を見極める力です。本質を見抜いて自分の中で単純明快化し、一つひとつの事象に立ち向かい解決していく過程は、難しいと感じる以上に、むしろ楽しいことにも思えます。

10月20日(木) 川俣高等学校長

PDCA

今では一般的な表現となったPDCAサイクルですが、この言葉が世に出た当初には、本来「Plan計画、Do実行、Check評価、Action改善」であるべきところを、「Plan計画、Delay遅延、Apology謝罪、Action改善」と読み間違えていた人が多くいたそうです。それほど、計画した通りに事は進まない、という現実がありますが、最も問題となるのは、Do実行にあります。やればそれでいいのか、と問われると、そうではありません。やり切ることに意義があります。中途半端で投げ出すことなく結果が出るまで実行し、ダメであれば、ダメな結果を正面から受けとめることが、真の改善につながります。ある種の執念とも言える「やり切る力」は、将来の成功に欠かすことのできない要素です。

10月19日(水) 川俣高等学校長