令和4年度

2022年12月の記事一覧

煩 悩

除夜の鐘が心に響く時期となりました。そいういえば、お寺には山門がありますが、本来は、三解脱門(さんげだつもん)を略して三門と表記し、悟りの境地を表しているのだそうです。人の持つ煩悩のうち、特に3つの改善を図ることで、人としてのあるべき姿を目指している、とされています。第一に貧(とん)です。何事に対してもむさぼる心のことをいいます。第二に瞋(じん)です。自己中心に考え、感情的になることをいいます。第三に愚かな心の癡(ち)です。物事の善悪の判断がつかず、正しいことができない状態をいいます。貧や瞋は自分の周囲に、癡は自分の将来に大きな影響を与えることがあります。三門(山門)をくぐるときだけではなく、常日頃から意識をして、その解脱を図るよう心がけることも大切です。人は、3か月継続することで変化の兆候が表れ、3年で完全に変わることができる、とされています。

12月28日(水) 川俣高等学校長

心の鏡

松下幸之助氏は、「迷うということは、一種の欲望からきているように思う。ああなりたい、こうもなりたい、という欲望から迷いは生じる。それを捨てれば問題はなくなる。だから、自分の才能というものを冷静に考えてみて、その才能に向くような仕事を選んでいくことが大切です。」と話されたことがあります。自分の進路を決めるために自分自身を知ることは、自分にしかできませんが、なかなか難しいことですね。自分の姿なら鏡に映すことができます。自分の声なら録音できます。でも、自分の心は、鏡に映すことも録音することもできません。自分を知るには、自分自身を心の鏡で見るしかなさそうです。心の鏡は汚れやすいものです。ごまかしの気持ちがあれば、瞬く間に濁ってしまいます。心の平静を保つことは、全てにおいて大切であるようです。

12月27日(火) 川俣高等学校長

灌 木

志賀直哉氏に師事していた作家の尾崎一雄氏は、何も書けない一時を過ごします。迷いに迷って、志賀直哉氏を頼り奈良に行き、厳寒の真夜中に鷺池のほとりに立ったとき、「我れ無一物」と痛感するとともに、頭の中で、何かが豁然(かつぜん)と拓けるのを覚えたそうです。それは、今すぐにでも、志賀直哉氏の域に達しようと背伸びをしていた自分の姿に気づいたためです。「志賀先生を亭々(ていてい)とそびえ立つ松とすれば、今の自分は小さな灌木(かんぼく)。でも、松には松の、八ツ手には八ツ手の生き方がある。」との悟りの境地であった、と、後に尾崎氏は話しています。人はそれぞれ、異なる環境に生まれ、異なる性格や考え方の下、成長します。そして、そのすべてが、個性として尊重されます。志賀直哉文学とは異なり、尾崎一雄文学は、庶民的とも呼べる、市井の夫婦の哀歓を描く作品を世に送り出すことで、その輝きを放つことになります。

12月26日(月) 川俣高等学校長

出藍の誉れ

中国思想家の荀子の言葉に、「学はもって已(や)むべからず。青は藍より出でて藍より青く、氷は水これを為して、水よりも寒し」というものがあり、生徒の皆さんも授業で触れたことがあると思います。弟子が努力して、師を超えて修養できたことを表現しているため、出藍の誉れとも言われています。冒頭の「学はもって已むべからず」には、学校など教育機関にいるときだけが学びの場ではなく、卒業してからも生涯にわたり学び続けてほしい、という願いが込められています。生徒(弟子)の皆さんが、学びをとおして教師(師)を超えていくこと、それは、師にとっての大きな喜びです。

12月23日(金) 川俣高等学校長

勝 つ 

人はよく、強い決意をもって新年を迎えます。その中には、自分の内面にやや無気力な面が見られたので自分に打ち勝ちたい、あるいは、冷静な判断の下、試験や試合に臨み結果を出したい、など、内なる対象(自分)に勝つことを意識したものも多く見られるようです。この勝という字は元々、力を込めてものを持つ、という意味があり、転じて、耐える、という意味でも使用されていたそうです。この本来の意味に沿えば、忍耐力や継続力なくして勝つことは困難であるように思えます。そういえば、北原白秋作詞、山田耕作作曲「まちぼうけ」という曲は、中国の戦国時代の諸子百家の一人である韓非の言葉「株を守り兔を待つ」をもとにして作られたそうで、人生の偶然の幸運を表す一方で、偶然には連続はない、という教訓も示されています。生徒の皆さん、自らの願いを成就させるためには、やはり、自らの努力に勝るものはないようですね。

12月22日(木) 川俣高等学校長