令和4年度

校長より

大きく見える

1985年のプロ野球日本シリーズは、阪神タイガースと西武ライオンズの対戦でした。そして、セリーグペナントレースの三冠王がバース選手でした。試合が間近に迫ったある日、心理学を研究している大学の先生が、西武の主力選手5人にバース選手の身長を尋ねてみたところ、188センチから200センチの間で回答を得ました。ちなみに、実際のバース選手は181センチだったので、西武ライオンズの5選手すべてが、実際よりも7センチから19センチも高い身長と思い込んでいたようです。すごさを感じるとその相手は大きく見える、といいます。心理学でいう光背効果という現象です。ちなみに、この日本シリーズにおいて、バース選手は初戦で決勝のHR、2戦目でも逆転のHRを打つなど活躍し、最優秀選手となりました。

10月11日(水) 川俣高等学校長

大きく見せる

人はなぜ二本足で立つようになったのでしょうか。鋭い爪も牙も持たない人間が生活をするには、二本足で立ち上がり身体を大きく見せる必要があった、とする説があります。相手への威嚇の意味からすると、インドネシアのコモド島に生息するコモドオオトカゲも立ち上がります。手を使うために立つようになったとする説もありますが、一方で、立つようになり手が使えたため、手や指、脳の発達を導いたとする学者もいます。私たちが立ったままじっと見ていると、敵意があると判断した動物が人を襲ってくる場合もあるそうです。動物園に行くと、サルのいる檻の前に、サルと目を合わせないでください、という注意書きがあるのはこのためです。では、立つことを覚えた人間が、相手に対して敵意がないことを示すために用いたことは何でしょうか。笑顔です。微笑みを相手にはっきりと伝えるよう、人間の唇は赤く目立つようになった、とする説もあります。様々な経験を経て、今があります。

10月10日(火) 川俣高等学校長

折れたバット

阪神電鉄の取締役であった山崎登氏は、従来の枠からはみ出して行動することでも知られています。スキー場や植物園、遊園地や園芸部門など、会社の手掛けるあらゆる部門で業績を積み、甲子園球場のグランド整備を担当していた時期もありました。その当時、阪神タイガースの4番は掛布雅之氏でした。読売巨人軍を甲子園に迎えた3連戦は既に2敗し、最終戦もリードを許す展開の中、終盤に1アウト満塁で掛布氏に打順が回ります。当時掛布氏は、長くヒットやHRの出ない不調の時期にありました。多くのタイガースファンが逆転満塁HRを期待する中、打球はボテボテのセカンドゴロ、併殺で攻撃が終了します。その打席のときに1本のヒビが入ったバットは、試合終了後に1塁側ダグアウトにそっと立てかけて置かれていたそうです。山崎氏は球団に許可を得て、そのバットをもらい受けます。「人生なんて恰好いいことばかりではない。失敗と挫折の連続なんです。」後に山崎氏は、そう話します。そのバットについても、「夢が断ち切られ、ボテボテの併殺打でバットが折れる。でも、そのほうが、よほど現実の人生を反映している。」とも話します。山崎氏は、練習の虫と称される掛布氏の陰の努力を知っているのです。ちなみに、一時のスランプを脱した掛布氏はその後、HRを量産し始めます。苦しいことや思い通りにいかないとき、山崎氏は必ず、そのバットの前に立つのだそうです。

10月6日(金) 川俣高等学校長

刺 激

イギリスの経済学者であり歴史家であったアーノルド・トインビーは、生け簀にナマズを1匹入れておくとニシンが長生きする、と述べたことがあるそうです。沖で獲ったニシンをできるだけ生かして持ち帰りたい、との漁師の方々の思いに対する回答とされているこの表現には、次のような背景があったようです。普段見慣れないナマズが近くにいると、ニシンは気になり緊張するため、その気持ちの張り、言い換えれば刺激から生き続けるのだそうです。組織には毎年、新しく社員が入ってきます。その存在自体が組織に活力を与えるとともに、新たな視点が斬新な商品開発のきっかけとなることも多々あるそうです。生徒の皆さんもいつか、新入社員になる日が訪れます。

10月5日(木) 川俣高等学校長

心を無にして物事に向き合えば、今まで見えなかったことも見えてくる、と言います。無とは、具体的に私意を離れ無私になることを指し、多く武道に関わる際に使われますが、文学に対する心構えにも使われる場合があります。松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ、という松尾芭蕉の言葉があります。思い通りにしようとして、たとえば自ら竹に光を当てるような行為を慎むべき、との教えとされており、それが無の境地に通じます。ちなみに、無とは自分色を一切なくすことを意味してはいません。無であるがために周囲との一体化を図ることができ、その瞬間に、潜在化していた真の自分に出会えるのだそうです。生徒の皆さんの中にも、自分では気づいていない真の自分が潜んでいます。その魅力を引き出すために、心穏やかになる一時を過ごしてみませんか。

10月4日(水) 川俣高等学校長

追いかけっこ

海鼠と書いてナマコと読みます。その見た目から、初めてナマコを食べた人は勇気があった、とも言われますが、コリコリとした食感があり、美味しく食べることができます。乾燥したものはイリコと呼ばれ、中国料理には欠かせない存在です。捕獲には底引き網漁が使われるものの、岩が多くある海底にいるので、古くから底見漁法も用いられています。あまり活発に動き回るタイプではなく、一晩で7メートル程しか動きませんが、一方で、うまく保護色を使うため、船の上から海底を見てもなかなか見つけることができません。そう、捕まらないよう、ナマコも考えています。そこで、昔の漁師さんは、どうしたらナマコを見つけることができるのか考え、その習性から一つの解答を見い出します。ナマコは移動しながら海底の砂泥を吸い込んで有機物を栄養として取り込み、残りは糞として排出します。最初は大きな糞が、二度目、三度目には徐々に小さくなっていくことを考慮して辿っていくと、ナマコに行きつくというわけです。今のところは人の叡智が優ってはいますが、ナマコも海底で、密かに次なる対策を練っているかもしれません。

10月3日(火) 川俣高等学校長

学びの意義

どうして学ばねばならないのか、生徒の皆さんはこうした疑問を抱いたことがあると思います。知識を得ることは重要とは知っていても、それが学ぶ意義にはならないのも事実です。この問いに対して全ての人が納得する回答は存在しないのかもしれません。かつて大学の同級生に、なぜ学ぶ必要があるのかを知るために大学に来た、と話す友人がいました。この命題、どれが正解かというよりも、どのタイミングで考えるのかも重要になるようです。でも、その回答に近づくためにも、読書をすることは大切です。読書により新たな知識を得ることができ、加えて、読書は、得た知識の活用についても一定の方向性を示してくれます。

9月29日(金) 川俣高等学校長

繋がり

大手飲料水メーカーの元会長であった宮田保夫氏は、ふと、自社製品の名にも通じるから、と思い、趣味で亀の甲羅を集め始め、その数、日本だけではなく海外からのものも含めて800以上にもなったそうです。古代中国の言い伝えによれば、東西南北の四方に、青竜、白虎、朱雀、玄武の四神がいること、そして、亀を模った玄武は黒褐色をした水の神であることを後に知り、その偶然性に驚いたそうです。さて、ふと気になったことや、ふと手にしたものが、自分に深い関りをもつ存在であった、という体験を持つ生徒の皆さんもいることと思います。そこに導かれたのは、偶然に見えて、実は必然だったのかもしれません。今の時代でも、科学で解明されない分野は多く存在します。

9月28日(木) 川俣高等学校長

木ヘン

なぞなぞです。木ヘンに朱は木の切り株、木ヘンに白は柏、では木ヘンに黄色は?、と尋ねられたら、生徒の皆さんはどう答えますか。ミカンではありませんよ、答えは横ですね。それはともかく、木ヘンの漢字は多くあります。たとえば、ショウやミョウ、ビョウと読む漢字は、木ヘンに少と書きます。梢を指すこの言葉は、よく繁っている木でも上の方にいくと枝葉が少なくなる様を表しています。加えて、この言葉には、終わり、という意味もあります。木が少なくなったら地球環境にも大きな影響を及ぼす、という警鐘の思いも込められているのかもしれません。一方、桐という木は、切ったほうが良く育つそうです。幹が柔らかいこの木は中心に空洞ができやすく、大きく育っても使えないことも多々あるので、その対策として、ある程度育った桐を根元から切り倒すそうです。後に出てくる新芽は良く締まり、親木以上に大きく育つそうです。これは台切りと呼ばれているため、桐はキリノキと称されるようになった、とも言われています。それにしても、漢字の持つ意味合いの深さを感じます。

9月27日(水) 川俣高等学校長

「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやのあきのゆふ暮」これは歌人藤原定家の作品です。辺りを眺めると、花も紅葉もなく、漁師の小屋があるだけの秋の海辺の夕暮れである、といった、秋の風情を素直に歌ったものです。でも、なぜか、侘しさを伴った感情がわいてきます。秋に対する私たちの捉え方には、華美と反する寂寥、華やぎと反するわびやさび、といったものが根底にあるのかもしれません。藤原定家のこの歌は、素直な描写であるがゆえに、様々な捉え方もできます。日本文学の底深い魅力漂う作品に、少しでも多く触れてみたいと感じさせられます。

9月25日(月) 川俣高等学校長