令和4年度

校長より

葦間の月

良寛和尚の歌に、「浮き草の生ふる渚に月影の ありとはここに誰か知るらん」というものがあります。通い慣れた道の傍らの葦の間に、昼間なら気づかない水たまりを見つけ、そこに天上の月の影がくっきりと映っている光景は、山奥の庵に住む自分によく似ている、といったことを表しています。月明かりに照らされて、夜に葦間から姿を現す水たまりとは、人の内面なのかもしれません。人の心の奥底には、清い月影が宿っています。その存在を自らの力で見つけることができたとすれば、それは素晴らしいことです。また、それに気づいてくれる友人がいたとすれば、それもまた、素晴らしいことです。

12月21日(火) 川俣高等学校長

汝自身を知れ

汝自身を知れ、これは古代ギリシアのアポロン神殿に掲げられていた言葉です。自分の立場をわきまえよ、といった戒めと理解されている場合もありますが、当時のギリシアでは、「ご機嫌よう」にあたる言葉として使われていたようです。ただしその中には、心の健康を祈る気持ちを込めていたようです。では、健康な心とは、一体どういったものを指すのか。それは、自分のしていることを深く理解する、という、いわば「知の知」です。自分の生き方を見直す機会としてこの言葉を念頭に置くことは、昔も今も変わることなく必要なのかもしれません。

12月20日(月) 川俣高等学校長

陰徳を積む

隠れた徳を行うことを陰徳を積むといいます。中国の漢の時代に、「夫れ陰徳のあるものは、必ず陽報あり」と説いた思想家がいます。「わからないように人のためになる良い行いをすると、必ず良い結果を伴う」ということから、この言葉は十分に、徳を行う人の励みになります。一方で、一層深化した考えを述べたのが唐代の百丈禅師です。「善を行って善を忘れ、執着なくして大我へ向かえ。行雲流水を求めて、報酬を期すな」と説きました。このレベルに達すると、きっと心の中には少しの淀みもなく、澄み切ったものとなっているはずです。この極みを目指さない手はありません。

12月17日(金) 川俣高等学校長

立 志

情報があふれ、多様な価値観が示される現在であるがために、自分が目指すことを明確にすることができず、悩む人は多いと思います。言い換えれば、自ら決めた志を持つのが難しい時代なのかもしれません。でも、間違いなく、自己を外面のみ飾るのではなく、内面を変革しながら生きる必要性は高まっています。過酷な運命を生き抜いた文豪ドストエフスキーは、「私は、全生涯をとおして、いたるところで、何事においても限界を乗り越えた。」と話しています。人生とは、環境に左右されることなく、自らの信念の下、自己を厳しく見つめ、改善を図り、次なるステップを目指して再び歩みを始める、この繰り返しとも言えます。「流されざるものは何なのか。まさしく、一人ひとりの志が問われる時代がやって来る」という視点から、ある広告会社が1988年を立志元年と位置付けました。その考えは、33年を経た今でも変わることなくある、と感じています。

12月16日(木) 川俣高等学校長

飛騨白川郷の合掌づくりは、屋根の傾斜が急なので雪を早く落とすことができたり、材料のカヤは軽くて建物に重みを与えないなど、実によく工夫されています。また、屋内の囲炉裏から出る煙は、屋根裏までまわってススとなるため害虫を防ぐとともに、カヤを乾燥させて長持ちもさせています。30年程経つと屋根のふき替えが行われますが、カヤの確保やお金以上に大変なこと、それが人手の確保です。そこで、共助組織の結(ゆい)があります。人と人を結ぶこの結により、人が集い、協力し、心を一つにして奉仕作業が行われます。日本の歴史は、人の手により守られています。

12月15日(水) 川俣高等学校長