令和4年度

校長より

差し水

黒豆や大豆などを煮るときに、湯に冷水を加えることを差し水と言います。沸騰させておくと、表面の皮だけ煮え皺ができて内側に熱が入り込まないため、水を加えることで皺を取り、内部まで熱を通す効果があるとされています。沸騰する湯に合わせて動いていた黒豆などが、冷水を浴びせられてびっくりしたように静かになることから、別名びっくり水とも表現します。かつては,、湯の吹きこぼしを防ぐ目的もある、日本人の知恵から生まれたびっくり水ですが、家庭でも火力調節が簡単にできるようになった現代では、このびっくり水という表現自体、徐々に使われなくなっていくのかもしれません。  

1月31日(水) 川俣高等学校長

変化の捉え方

現代は変化の激しい世、とよく言われます。かつて西欧では、世界が変わるからこそ不動の真理を追求しようとしました。中国では変化する側面を陰と陽の2面として捉え、人間万事塞翁が馬という考えを育てたとも言われます。日本では変化をそのまま受け入れ、徒然草にもあるように、定めなきこそいみじけれ、と表現しています。一定の状態が保たれることのない、こうした変化に富んだ事態に対応するには、様々な経験を基にした心構えを要するようです。

1月30日(火) 川俣高等学校長

啐啄同時

母親ニワトリが卵を抱いて何日も温めていると、卵の内側からヒヨコが殻を突く瞬間があります。これを啐といいます。そして、母親ニワトリがヒヨコの突いた同じ箇所を突き返すことを啄といいます。啐と啄が同時に行われることで卵が割れ、ヒヨコが世に誕生します。これを基に、禅の世界では、師僧が弟子に法灯を伝える絶妙なタイミングのことを啐啄同時としています。教員による教えも、早すぎることなく遅すぎることなく、タイミングが重要とされています。ちなみに、 啐啄同時が書かれた掛け軸は、本校校長室にも掲げられています。

1月29日(月) 川俣高等学校長

喜びのお返し

生徒の皆さんの中には、企業への就職を考えている人も多くいると思います。企業は欲する人にモノを提供する側面を持っているのは事実です。でも、利することのみ考えている処から繫栄は生じません。企業は人に喜びも与えているのです。人には、与えられたものを返そうとする傾向があります。憎しみを与えられると、憎しみを返すことにもなります。一方で、喜びを与えてもらうと、人はその喜びを大きくして返そうとします。熊本に、モチ投ぐるダゴ返る、という方言があります。誰かにモチをあげたらアンコの入ったダンゴが返ってきた、という意味だそうです。喜びの輪廻に入り込むと、皆が笑顔になります。生徒の皆さんがそうした空間を作り出せたら、周囲の人も、皆さん自身も幸せになります。

1月26日(金) 川俣高等学校長

ほととぎす

豊臣秀吉の『鳴かぬなら 鳴かせてみよう ほととぎす』という句に対して、徳川家康は、『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす』と詠んだ、とされています。織田信長の句を含めて三者の異なる性格をよく表していると称されています。でも、この三句は、鳴くホトトギスは善、鳴かぬホトトギスは悪、という共通する観点から成っています。一つの概念に対して、善と悪、陰と陽、あるいは有と無を求めるのは人の常ですが、超越した別の観点も存在します。松下電器の創設者である松下幸之助氏は、『鳴かぬなら それもまたよし ほととぎす』と表現されました。目の前にある状況をあるがままに受け入れるには、ある意味、勇気を要します。

1月25日(木)川俣高等学校長